『柄沢スミ』をご紹介

新潟駅ビルCoCoLo本館 ご婦人のファッション・スポット「柄沢karsawa」の創業者。戦後、間もなく新潟市の沼垂(ぬったり)で「柄沢呉服店」をはじめる。上越新幹線開業の年、駅ビルCoCoLoに出店。以降、小千谷ちぢみなどの日本の伝統の生地やヨーロッパ各地から取り寄せた生地でオンリーワンのオリジナル服や小物を製作販売、

また、「エリッツ」ボイルガーゼやカトリーヌ・アンドレの作品に早くから着目した。作り手との交流から「エリッツ」yカラーシリーズ、カトリーヌ・アンドレの「SUMISAN」デザインが生まれ、「おしゃれ好き」たちを引き寄せる。

 

「よいものを着ると気立てが良くなる」が口癖で、ヨーロッパ各地、国内に自ら足を運び、生地良し、仕立て良し、お客様良しの「三方良し」のモットーで品定めをする。2015年4月に94歳没。他界する10日前まで店舗に立ち続けた。

 

このホームページは、2009年から6年にわたり「柄沢スミ」が孫に語った一昔前の風習や食についての「手前味噌」な映像集である。

画 柄沢スミ
画 柄沢スミ


’’マダム・カラサワは強い意志を持ちながら、変幻自在で柔軟なアイディアで多くの才能を見せてくれました。その姿はまるで「万華鏡」のように見えました’’

                           ー カトリーヌ・アンドレ



 

大正10年、新潟県北部、現在の胎内市に生まれる。生家は江戸時代からつづく商家。その建物は、現在、国の有形文化財。主屋、「なまこ壁」が特徴的な見世蔵、内蔵がかつての宿場町の趣を残している。

 

主である父は「生地と裁断はイタリア人、縫製は日本人」とスーツを仕立てに東京へ行く、たいへんな「しゃれもん」。子供の服も東京で仕立てていた。食にもこだわりがあり、大正時代からクリスマスには鳥の丸焼き、ビーフシチューやライスカレー、ロールキャベツが食卓にあり、父はよくビリアード・ルームでネルドリップコーヒーを飲んでいた。また、当時、日本に数台しかない「舶来品」のシリアルナンバー付き蓄音機やステレオ、オートバイを家で目にする、大変裕福な子供時代をであった。

 

 女学校卒業後、上京し、学生生活をした後、帰省し、結婚。相手は北原白秋のもとで和歌を習い、日本民藝運動の柳宗悦の弟子でもあった新潟県北蒲原の十三代目地主当主。戦中戦後の混乱の中、夫婦で牛車に家財一切をのせ、新潟市沼垂(ぬったり)に移り、「柄沢呉服店」を開く。最初は自身の嫁入り道具だった高級着物を担ぎ夜行列車で東京の競り市へ行き、その元手で仕入れをした。その後、時代が着物から洋服に変わってゆくなかでアイディアと直感力を活かして仕事をした。ある時、倉庫に積み上がった反物を抱え経営が苦しくなった本藍染の木綿屋さんに助けを求められ、在庫を全て買取り、自らのセンスでコートやドレスに仕立てるとたちまち大ヒットし、産地の人に感謝されたこともあった。

 

日本の少量生産ながら良質の「匠の素材」やヨーロッパから自身の審美眼で選んだ生地や作品を取り揃え、お客様に恵まれ、会話をたのしみながら商売を営んだ。


私が商売を始めたころ

2011年収録「私が商売を始めた頃」。

90歳の誕生会の映像後、語ります。

着物を風呂敷で担ぎ夜汽車に乗る話です。



毎年、自身の誕生会を催しました。この日は米寿の宴。「エリッツ」社長さんから88本の赤いバラが届きました。家族一同でお祝いの記念写真と晩餐をホテル・オークラ新潟にて。

運にも恵まれた「柄沢スミ」。この日はフランス「王のお菓子」ガレット・デ・ロアで当たりを引き、王冠を被り、1年の健康を祈りました。

 

ツキが雲に隠れたこともありました。海外での仕入れが届かず、現地事務所へ行ってみると「もぬけの殻」だったり、まがい物を大量につかまされたことも。



2015年3月21日。自宅での94歳の誕生会。孫と共に最期のバースデーケーキを。


2017年新潟駅ビルCoCoLoカタログ
2017年新潟駅ビルCoCoLoカタログ

 

 新潟駅ビルCoCoLoのショップカタログの

「ニイガタ遺伝子」というテーマで、巻頭を飾った。



パオロ・ビザー二とヴァレーリオさんからのメッセージ
パオロ・ビザー二とヴァレーリオさんからのメッセージ
左メッセージの訳 (加藤順子さん訳・クリックすると拡大します)
左メッセージの訳 (加藤順子さん訳・クリックすると拡大します)

「柄沢スミ」の椅子は今もそのまま